夜か?中野、ノスタルジー

2010年02月12日

ジェノベーゼ。記憶と空気

100212_1321~001

 金曜なのに講義がない、とは何ともさびしく手持無沙汰なかんじ。せいきょうから注文品を受け取り、お昼に、ジェノベーゼソースのスパゲティ(トマトとモッツァレラチーズを入れて)を作って食べた。おいしい。けれど、国立のじゃらんじゃらんで買ったTさんお手製の期間限定のジェノベーゼソースが懐かしい。あれは本当、美味しかったなー。
 こないだ、夜になってから急に部屋の片づけをして、キッチンに料理本だけのコーナーを作ったら何だか部屋の居心地が良くなった。スペースをどんどん移動して、バッチコーナーもできたし。で、何か、こういう作業していると、この部屋に引越してきた時のことを思い出した。何にもない部屋にどんどん運ばれてくるわたし達の荷物。8月のクソ暑い日だった。なかなか片付かなくて、だけど早く住み心地のいい部屋にしたくて、へとへとな身体を動かし続けた。2人とも疲れ果てて、お腹もすいて、買い出しにも行ってなくて、結局ピザを注文した。Lサイズだ。しかもコーラまで飲んだ。そういう自暴自棄な感じが楽しかった。と、いう思い出話をして「あーあったねー!懐かしいねー」って笑顔でやっちゃんに言われた時、わたしはふと思ったんだ。
 あ、パートナーを失う(特に死別)っていうのは、こういう話ができないことなんだ、って。わたしとこの人の間でしかわからない、あの空間のあの雰囲気、それを共有して、一緒に懐かしがることができないってことなんだ・・・。その考えはいきなり降って来た。
人が死ぬことはとても自然なことで、それ自体が悪いことだとかいうわけではない。けれど、残された者はつらく切ない。それはきっと、こういう他愛ない「共通の空気」を失うことなんだと思う。長生きの哀しみはそこにあるのかもしれない。誰も、もう触れることのない、静かな場所に、詰まった思い出、本当に些細なことだとしても大切な記憶、そういうのをしまい込んで、本当の意味で、もう二度と出せないってことなんだ。
 そして、そういう大切で些細な記憶っていうものを、こっそり宝のように隠し持っている老人、っていうのも悪くないな、と思った。


gofuchudiary at 14:03│Comments(0)TrackBack(0) 日々 | 記憶

トラックバックURL

コメントする

名前
 
  絵文字
 
 
夜か?中野、ノスタルジー